ルイ・エクトル・ベルリオーズは、『幻想交響曲』で良く知られているフランスのロマン派音楽の作曲家。
この他に死者のための大ミサ曲(レクイエム)等でみられるように、楽器編成のはなはだしい拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派の音楽の動向を先取りした。
彼の肖像は、かつてのフランス10フラン紙幣に描かれていた。
ベルリオーズは、フランス南部のラ・コート=サンタンドレに生まれる。
ラ・コート=サンタンドレはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。
父親は開業医であり、息子のベルリオーズが18歳の時に、家業を継がせるためにパリに行かせた。
ベルリオーズ青年は解剖学の途中で医者の道を閉ざす。1年後、父親の反対にもかかわらず医学を捨て、一転して音楽を学び始めた。
その後パリ音楽院に入学して、オペラと作曲を学ぶ。
早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。
テオフィル・ゴーチエはこのように述べている。「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」
ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている。
これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、華やかな恋愛関係において明らかである。
23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピアの劇団の熟女女優で、アイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんでいく。
この作品の初演と同じ1830年に、ローマ大賞を受賞する。
スミスソンにこばまれると、ベルリオーズはあきらめて熟女マリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエルに嫁がせてしまう。
ベルリオーズはその頃、ローマ大賞で賞金(奨学金)を得て、ローマに留学中であった。
『回想録』によれば、この時パリに引き返し、熟女女中に変装してモーク熟女母子を殺害して自殺を図ろうとまで企んだが、ニースにたどり着く途中に気が変わった。
ベルリオーズの手紙は、熟女スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる幻想交響曲は、驚異的で斬新であると受け取られた。
この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものであっただろう。
ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンが『幻想交響曲』の演奏を聴きに来て、結婚するにまで至った。
熟女スミスソンが結婚を承諾したのは、馬車から落ちて重傷を負ったこと、熟女女優として下り坂にあったことも理由の一つであろう。
しかし2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった。
さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている。
また、ベルリオーズは熟女スミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の熟女女性である事に気がつき失望したのだとする説もある。
2人は1841年頃から別居し、1854年にスミスソンが亡くなると、ベルリオーズはすでに同棲していた熟女歌手のマリー・レシオと結婚する。
生前のベルリオーズは、作曲家としてよりも、指揮者として有名であった。
定期的にドイツやイングランド等で演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。
自作曲だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。
リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する”練習魔”だったという。
ヴァイオリンの巨匠にして作曲家のニッコロ・パガニーニとの出会いから『イタリアのハロルド』が生まれ、また金銭的援助も得ることができた。
ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。
現在は、モンマルトル墓地において、2人の熟女妻、ハリエット・スミスソンとマリー・レシオとともに、永い眠りに就いている。
ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者であるコリン・デイヴィスの奮闘に依るところが大きい。
デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられるようになった。
デイヴィスによる歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全な形で舞台上演されることはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。
2003年に、ベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。
ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。
『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠している。『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷きとなっている。
歌劇『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来する。
『ロメオとジュリエット』は、言わずと知れたシェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。
記念碑的な大作オペラ『トロイアの人々』は、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に立脚している。
そして、最後の歌劇となったコミック・オペラ『ベアトリスとベネディクト』のために、シェイクスピアの『から騒ぎ』に大まかに基づいて台本を作成。
また、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でもあった。
『英雄交響曲』のパリ初演が、ベルリオーズの作曲活動における転回点だったようである。
ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニであった。
『イタリアのハロルド』をもってベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置く。
サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の『妖精のワルツ』から取られている。
しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。
『幻想交響曲』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。
劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。
ベルリオーズは、演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い枷となってのしかかった。
ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数の確保はできていたが、大掛かりな??数百人もの演奏者を要する??ベルリオーズ作品の特殊な性質上、経済的な成功は望めなかった。
しかしジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によってなんとか飢えをしのぐことができた。
ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。
大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な文調で、執筆を続けた。
『オーケストラのある夜会』は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評した。
ベルリオーズの『回想録』は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出した。
『音楽のグロテスク』はオーケストラ夜話の続編として出版される。
教育的な著作である『管弦楽法』によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えたといえよう。
この理論書は、その後マーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。
リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。
ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように《幻想交響曲》に入り浸って、自作の《交響曲第3番》を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」